柳沢寺の起源
この寺の成立について最も古い記録は、今より800余年前に成立した「神道集」の「上野国桃井郷上村八ヶ権現の事」という、一章の記載です。更に、200年経過した中世末に「船尾山縁起」が成立しました。
そこには、この寺の縁起として、次のような伝説が書かれています。
平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間の事です
天台宗宗祖傳教大師の東国巡行のみぎり、この地に住む群馬の太夫満行というものが大師の徳を慕って榛名山中の船尾の峰に”妙見院息災寺”という巨刹を創建し、大師を請じて開山しました。
本尊に千手観音をお祀りし、子授け観音として有名になりました。
その後、子供に恵まれない事を憂いていた千葉常将という武将が霊験あらたかといわれた船尾山の観音様に願を掛けたところ、一子相満若が産まれました。
常将は喜び、子供を船尾山に預け養育しました。
やがて相満は立派な若者に成長しましたが、ある時榛名山に住む天狗が相満に恋慕し、祭礼の日にさらってしまいました。
父、常将は、寺側が立派な若君を手放すのを惜しんで隠したものとして怒り、手勢を連れて、寺に抗議に押し掛けました。
寺側との行き違いから争いとなり、全山焼失してしまったそうです。
その後、天狗が現れ、子供を預かった事を伝えたので、常将は思い違いから寺を焼いた事を悔いて、郎党と共に自害しました。
常将の妻は、夫や一族を弔うため、現在の柳沢寺の地に寺を再建しました。
それから後を追って、池に身を投げて死んだという事です。
この地を大悲天女の池と言い、奥方を祀ったのが思川弁財天であり、常将と一族を祀ったのが、常将神社となりました。
神道集の説話と船尾山縁起のそれとは違っていますが、昔榛名山中に大寺院があり、それが消失したと言う土着の古伝説を基盤とし、榛名東麓の農村社会と関係の深い相馬岳信仰と結びついて語り伝えられたこの伝説の中には、小地名の起源説話が多く目に付き、地方農村への唱導文芸の流入事情などが伺えて興味深いものがあります。
現状と諸堂
天台宗に所属し、延暦寺の直末の寺として中世には学僧も多く出現したといいます。戦国時代末には北条、上杉、武田の争覇の戦場となり、全ての堂宇を焼失しました。
江戸時代に入ると天海僧正、高崎城主・安藤右京進などの尽力により”朱印地三十石”を賜り再建に着手、貞享元禄に至り諸堂の修復を見ました。
現在は境内地約3万平方米。
戦後すぐ参道の巨木の並木も伐られましたが、まだ残る杉木立はその中に散在する諸堂に色を添えています。
諸堂並びに庫裡は大正元年~7年にかけて大修理がなされ、茅葺きより瓦葺きに改められましたが破損著しく、昭和55年より2年に渡って大修理がなされました。